信州小布施 栗林の中の栗菓子店 |
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小布施栗の話 |
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小布施栗の発祥は、『高井郡小布施村次第』によると「申伝事」として、弘法大使が諸国を巡っての途次、小布施へこられて三個の栗を蒔いたのがそもそもの始まりと伝えています。また、雁田山に二十端城を築いたという萩野常倫が貞治六年(1367)、父祖の領地丹波国から取り寄せて、松川の治水のために植えたさせたのが発祥とも伝えています。 史料となって確かな初見は寛永十七年(1640)二月、松城藩菅沼九兵衛が小布施村の小右衛門に栗林を預けるについての命令書です。小布施村の一部が松代藩領になったのは初代藩主真田信之が上田から移封された元和八年(1622)、以後明治御一新まで松代藩御林になって栗林は管理されました。 御林の管理は関谷家が代々御林守を任命され、権限も与えられました。面積は江戸時代ははっきりしませんが、明和三年(1766)の絵図には四五町五反と記されています。 御林の栗は九月から十月にかけて初栗、升栗、次大栗、献上栗の四種に分けて上納しましたが、お蔵番へ持ち込まれると粒・色つや・虫・荷姿などについて厳重な吟味を受けました。次大栗と献上栗は江戸へ送って、藩の進物用に使われました。とりわけ献上栗は最高品、幕府への献上品になって文化八年(1811)の記録では献上栗三千個とあります。 俳人小林一茶が文化十年九月、六川に滞在した時の作である『拾われぬ 栗の見事よ大きさよ』という句は、このような時代に詠まれたものです。 もとより小布施には砂質の酸性土壌、日当たり、排水のよさなど栗の生育条件が揃っていましたが、濃密な果肉、色つやの濃い豊かなフォルムの小布施栗は、農家の人々の品質改良に注いだ努力が伴ってのものです。 |
栗の茹で方・焼き方・剥き方のコツ |
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茹で方 |
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